Media

快挙はラジオで

3/21 なにしろ、お彼岸の墓参りに行かなければならなかったもので、WBC決勝戦は、ほとんど運転しながらラジオで・・でした。

いやあ、ヒヤヒヤした。試合じゃないですよ。運転! ケータイを運転しながらかけるのはNG、どころじゃないですよ――しかし、ラジオは面白いですね。「いま、お墓参りの行き帰りで、運転しながらお聞きの皆さん」なんて呼びかけに、「ああ、僕のことだ」って素直に思ったりして。やたら「日本は新しいヒストリーを刻んだ!」なんて、サンディエゴからの中継のせいか、ところどころに無用な英語を挟むアナウンサーの癖に、心の中でふき出しつつも、結構、耳に入ることばと音だけで頭の中でちゃんとシーンを描けたりして、わくわくしながら聞けました。

いろんなことがありましたが、僕は本当にこの大会を楽しめたと思います。どれも実に面白い試合だった。野球というゲームを十二分に満喫できた。僕も野球小僧だっただけに(今もそうですね!)心から夢中になれた。それを支えてくれたのは何より試合の緊迫感だったと思います――それは、一方のチームだけでは出来ない。全ての選手たちの頑張りに、本当に敬意を表したいと思います。

だからこそなんですが、野球というゲームそれ自体がもつ隙の多さ、というかそれを語るメディアをはじめとした人々のことばの不用意さが気になって仕方がなかった。いや、野球だけじゃないかもしれない。国別団体戦の宿命かもしれないけど、やっぱ、ナショナリズムとか安易なイデオロギーを簡単に呼び込みすぎる。

若者たちが口々に叫ぶ「日本人でよかった」っていう台詞は、この勝利の喜びに対して本当に相応しいことばなのでしょうか。「ありがとう」「感動した」――感情レベルではそのことばには確かにうそはないでしょう。しかしそれは何に対して??? こういったことばを考えなしに発することに対する違和感は、とみに最近大きくなりつつあります。

このような疑問を呈したならば、「じゃあお前は日本チームを応援していなかったのか?」と言う厳しい問いがすぐに襲ってくるでしょう。もちろん僕も、心から応援していました。何故? それはものすごく簡単な理由です。僕は小さい頃から、この選手たちが育った(今はMLBにいるイチローや大塚も含め)チームたちが競い合っている「プロやきゅう」が身近な存在だったからです。親しいものを応援する――そういった単純なことなんです(実はそれがとても大事なことなのではないでしょうか)。それは決して、それが「日本というの国家の代表選手だから」なんて大それたことではないのです。

安易な「感動」に乗じて、この快挙が、「大きな物語」へのすり替えに染まってしまわないように、もっともっと今回のような出来事を「ものを考えるチャンス」として大事に扱っていきたいものです。

その点、今晩のNews23の筑紫哲也の多事争論“滅私無用”は、久々に素直にナイス!と思いました――松井たち、自らの意思で参加しなかった選手たちに思いを馳せつつ――「全くの自由意志で集まった選手たちで成し遂げた快挙であるということが大きな意味を持つ」

アメリカの報道にもなかなか深みを感じます――「新しい世界秩序」(ESPN)、「ベースボールではなく、今回はヤキュウが最高だった」(AP通信)
http://www.major.jp/news/news20060321-13289.html

女王の誕生

3.17-18と、「女王の教室」スペシャルをみました。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20060221et03.htm

うーん、こういう風なスペシャルを組むのは、確かに注目は集めるだろうけど、物語的にはどうなんだろう。説明過剰じゃないだろうか。白いスーツがグレーに、そして黒にという[変化]など、わかりやすすぎるシンボルがてんこ盛りで、ちょっとおなか一杯な感じ。

そもそも物語りは、因果性を逸脱したところに生まれるわけで、昨年の「女王」の緊迫感の大半は、その部分に支えられていたはず。確かに一部には大変衝撃を与え、批判もやむことがなかったドラマではありましたが、そここそがこのドラマの魅力の核心部分と表裏一体だったはずです。最初から、この「種明かし」を予定していたかどうかは知りませんが、なんか随分安っぽくなったなあと、ちょっとがっかり。

このことは、最近あちこちで見られる過剰な「説明」に対する欲求(すぐ「説明責任」とか、口走る気味の悪い傾向)とシンクロした問題ですね。

しかも「エピソード1」「エピソード2」・・これでは明らかにスターウォーズだ。何故、アナキンがダースベイダーになったかのストーリーの焼き直しみたいで。。。

とはいえ、それでも最終シーンにはうなった。やはりこのドラマは天海祐希にしかできない。「まだ、こんな甘い顔じゃダメだわ」といって鬼の表情に徐々に変わる、この演技は圧巻でした。

アメリカの黄昏

3.17 いろんなことが起こるWBC。なんとアメリカによるアメリカのための大会で、アメリカが敗れました。

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/jpn/wbc/2006/index.html

野球というもの自体が、アメリカというグローバル経済が支えるメタ国家を象徴するようなスポーツで、何しろ、国内大会のチャンピオンシップを「ワールドシリーズ」などと標榜こと自体が、そのことをあからさまに表しているわけですが――なんだか、この出来事は野球に留まらず、こうした「アメリカ」というか、グローバル経済の自己言及性転じて「自作自演性」の破綻としか、言いようがなく、(例の審判員のことも含め)甚だ滑稽に見えてしまいます。

つまり、これは9.11以降の、アメリカという国家の不思議な一連の行動の延長線にあることがらとしてみるととても面白い。

折りしも、ブッシュは就任後最低の支持率となったそうです。
しかし、それでも、その「穴の開いたシステム」に寄りかかることを公言して憚らない日本という国は、ほんとうに「なんだかなあ」。。。

テレビと記号論

3.15 いよいよ動かないわけにいかなくなりました。この日は朝から、5月13日、14日に予定されている日本記号学会の大会準備――発表内容や登壇者候補への打診に一気に手をつけ始めました。

http://www.iamas.ac.jp/~yoshioka/jass/
詳細が決まりましたら、↑にアップされる予定です。

11日に行った石田先生との打ち合わせをもとに動き出したわけですが、「テレビ」という対象、「記号」というアプローチをどのように広くとるかが、企画そのものにとって極めて重要な課題、というか難題。お声をかけさせていただいた皆さん!よろしくお願いいたします(詳細のご相談は、個別に、のちほど)。

公共圏に吹く風

3.8 情報学環の学環長を務められた花田達朗先生の「最終講義」に行きました。

僕が情報学環に入った年は、花田先生の本務は社情研で、学環には兼務でこられていた立場でした。もし、学環の専任でしたら、20年前ハーバーマスで卒論を書いた僕は、おそらく花田先生の研究室に入ることを希望したと思います。それが選択肢としてなかった僕は、新しいチャレンジとして西垣先生の研究室に入った・・・これは結構「運命」の分岐点だったと思います。

しかし「出稽古」好きの僕は、修士論文の最初の構想発表の場を敢えて花田ゼミに選びました。僕の頭の中には「3」という数字を手がかりに、ヘーゲル弁証法とラカンの三界の理論とパースの三項図式を重ねる構想があった――これを誰にぶつけたらいいか。。僕は迷わずに「弁証法」的思考にまず挑むことを考えたのです。このとき、花田先生からいただいたあたたかいことばが、僕の研究の出発点のひとつになっているといってもいいでしょう。

この日の花田先生は、珍しく「個人史」を語られました。
その中で、僕と花田先生が、なぜ情報学環で出会うまで接点が乏しかったかがはっきりわかりました。僕が専らフランクフルト学派を追いかけていた1980年代は、先生はドイツにいた。先生が積極的に「公共圏」に対して発言をされ始めた1990年代前半は、僕は最もビジネスにはまっていた――しかし、それだけに情報学環入学が決まったころから再びむさぼるように読み始めた「公共性/圏」論は、僕にとって新鮮でした。

花田先生は、極めてロマンチストであります。それは「理念型」というメタ概念に対する思いにあらわれています。「理念型」は、現実から抽出されたモデルであるにとどまらず、「未来」からやってくる「夢(花田先生は、それを「あるべき・・・」とよく言われる)」のようなものなのです。この「あるべき・・・」を構想する力に、実は花田先生は最も魅かれ、その一方で、どんどん社会の中からこの力がそがれていることを何よりも憂いていたのではないか。この日の講義は僕にはそんなふうに聞こえました。

講義は特にハーバーマスとの関係を中心に語られましたが、先生の「公共圏」へのこだわりには、実はハーバーマスより、『空間の生産』のH.ルフェーブルの影響を強く感じるように思います。その点があまり語られなかったのが残念(質問したかったけど、そんな雰囲気じゃなかったので)。そうでないと、建築や、文化政策などへの先生の関心や交友関係は説明できないなあ、と。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/hanada/hanadap1/hanadap1.htm
(花田達朗と建築あそび)

intercommunication2001.9号に掲載された「公共圏に吹く風」がこの日は配布されました。
そのエッセイは宮澤賢治の「生徒諸君に寄せる」をナビゲータにして構成されていました。

最後に花田先生は、その中で引用されなかった一節を読み上げて、授業を終えられました。

「新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ」

そうか、やはりマルクスなんだ。この瞬間、僕の中で花田先生と学部時代の恩師である野地洋行先生が重なりました。ぐっと来ました。
http://why.kenji.ne.jp/asahi.html
(宮澤賢治「生徒諸君に寄せる」)
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