【一時的復活】授業用エントリです

5/26 河井先生と一緒にやっている「広報メディア基礎論・演習」の授業用に一時的にこのblogを復活させます(すぐ消します)。

因みに、blog再開は6月中旬の予定です。
私事ですが、自宅の引越、ようやく完了しました(「完了」と言っても、まだダンボールの隙間で暮らしています。※ダンボールの「中」ではないよ!)。但し、ケーブルの乗り換えの関係で、まだ通信環境が安定していません。

しかし、朝日の差し込む家っていうのはいいモンですね。


書き続けること、休むこと。

4/24 ついに一ヶ月、blogを休んでしまいました。

というか、かなり前(去年の夏ぐらい)から、そろそろ、このSammy's blogを、一旦お休みにしようか――と、ずっと考えていたんです。一度、エントリ数が400に達したときに、踏ん切りをつけようとしたのですが、どうもタイミングが悪く、そのときから444(長嶋のホームランの数)で一区切りつけようと決めてました。

このエントリが、その444本目です(一本削除したのがあるので、実質上公開してるのは443ですが)。

この一月も、書こうと思えば書きたいネタは沢山ありました。主に大学ネタが多いですが、卒業式もあったし、甲子園の早稲田実業と岡山関西の試合のことも書きたかった。4月になってから、大学の新しいプロジェクトまわりもにぎやかになってきたし、番組の改編にも一言言いたくもあった。4/10はNHK文研のシンポジウムで登壇、それから記号学会の準備や、情報学環での「ヒロシマ」の発表会も、いままでなら書いてたネタでした。・・・でも、書けなかった。

書き続けることは難しいです。

特に、たかがblogではありますが、同じ場、同じ形式で書き続けること(とはいっても、微妙にこの二年半でトーンは変わっていますが)は、僕という人間が変わり続ける以上、徐々に窮屈になってきます。

僕は本当は何が書きたいのだ。
何のために書いているのだ。

最近は、書きながら、一月ほぼ15本という自分で決めたルーチンをこなしたほっとした気持ちの裏側で、ずっとこの問いと戦っていました(なんて、格好をつけるほどのものでもありませんが)。

ということで、ちょっと休みますね。
でも、すぐに復活しますから少々お待ちを(このサイトじゃないかもしれないけど)。

http://mahamaha.cocolog-nifty.com/kyoyo/2006/04/post_7c06.html
http://www.current.co.jp/blog/archives/cat_cat120.html
http://blog.so-net.ne.jp/MizunoYutaka/2006-04-19
http://swingbooks.jp/blog/2006/04/post_13.html#more
http://centre.cocolog-nifty.com/media/2006/04/post_b3c1.html
↑書き続けている、わが「友」に敬意を表しつつ。

あ、そうそう。ついでだから「日本記号学会大会」<記号としてのテレビ>は宣伝しておきますね。
http://www.nulptyx.com/lec_kigougakkai.html

これまた、僕にとって大きな転機になりそうな学会シンポジウムです。

快挙はラジオで

3/21 なにしろ、お彼岸の墓参りに行かなければならなかったもので、WBC決勝戦は、ほとんど運転しながらラジオで・・でした。

いやあ、ヒヤヒヤした。試合じゃないですよ。運転! ケータイを運転しながらかけるのはNG、どころじゃないですよ――しかし、ラジオは面白いですね。「いま、お墓参りの行き帰りで、運転しながらお聞きの皆さん」なんて呼びかけに、「ああ、僕のことだ」って素直に思ったりして。やたら「日本は新しいヒストリーを刻んだ!」なんて、サンディエゴからの中継のせいか、ところどころに無用な英語を挟むアナウンサーの癖に、心の中でふき出しつつも、結構、耳に入ることばと音だけで頭の中でちゃんとシーンを描けたりして、わくわくしながら聞けました。

いろんなことがありましたが、僕は本当にこの大会を楽しめたと思います。どれも実に面白い試合だった。野球というゲームを十二分に満喫できた。僕も野球小僧だっただけに(今もそうですね!)心から夢中になれた。それを支えてくれたのは何より試合の緊迫感だったと思います――それは、一方のチームだけでは出来ない。全ての選手たちの頑張りに、本当に敬意を表したいと思います。

だからこそなんですが、野球というゲームそれ自体がもつ隙の多さ、というかそれを語るメディアをはじめとした人々のことばの不用意さが気になって仕方がなかった。いや、野球だけじゃないかもしれない。国別団体戦の宿命かもしれないけど、やっぱ、ナショナリズムとか安易なイデオロギーを簡単に呼び込みすぎる。

若者たちが口々に叫ぶ「日本人でよかった」っていう台詞は、この勝利の喜びに対して本当に相応しいことばなのでしょうか。「ありがとう」「感動した」――感情レベルではそのことばには確かにうそはないでしょう。しかしそれは何に対して??? こういったことばを考えなしに発することに対する違和感は、とみに最近大きくなりつつあります。

このような疑問を呈したならば、「じゃあお前は日本チームを応援していなかったのか?」と言う厳しい問いがすぐに襲ってくるでしょう。もちろん僕も、心から応援していました。何故? それはものすごく簡単な理由です。僕は小さい頃から、この選手たちが育った(今はMLBにいるイチローや大塚も含め)チームたちが競い合っている「プロやきゅう」が身近な存在だったからです。親しいものを応援する――そういった単純なことなんです(実はそれがとても大事なことなのではないでしょうか)。それは決して、それが「日本というの国家の代表選手だから」なんて大それたことではないのです。

安易な「感動」に乗じて、この快挙が、「大きな物語」へのすり替えに染まってしまわないように、もっともっと今回のような出来事を「ものを考えるチャンス」として大事に扱っていきたいものです。

その点、今晩のNews23の筑紫哲也の多事争論“滅私無用”は、久々に素直にナイス!と思いました――松井たち、自らの意思で参加しなかった選手たちに思いを馳せつつ――「全くの自由意志で集まった選手たちで成し遂げた快挙であるということが大きな意味を持つ」

アメリカの報道にもなかなか深みを感じます――「新しい世界秩序」(ESPN)、「ベースボールではなく、今回はヤキュウが最高だった」(AP通信)
http://www.major.jp/news/news20060321-13289.html

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